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支援村スタッフの被災地訪問 その2

5月11日〜12日にかけて、支援村事務局のスタッフ4名が二回目の被災地訪問をしました。
首藤、岩田、林菜穂子、下郷さとみが訪れたのは宮城県石巻市、福島県相馬市・須賀川市です。

今回の訪問の目的は、日々状況が変化している被災地の現状を把握した上でどのような支援が必要なのかを探るためです。

以下、事務局長の首藤による被災地訪問の報告と写真です。

写真: 上から…松島での食事(600円!)/  松島の被害  /  大宮神社にて / 石巻の被害 / 宿泊した追分温泉 / カフェ会場を提供してくれる相馬市のまる九さん






 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<旅程>
5月11日(水)
6時      支援村出発
12時過ぎ    松島到着 昼ごはん
14時過ぎ    石巻入り
15時30分ころ  大宮神社到着~石巻漁港
19時      追分温泉到着

5月12日(木)
7時半     熊谷産業訪問@石巻市
10時20分   相馬市役所到着~Oさんと打ち合わせ
12時20分   相馬発
14時45分    自然食品店@須賀川市
16時10分   須賀川発
23時     支援村到着
———————————————————————————

栃木県から福島県に入るあたりで、随所に瓦屋根にブルーシートがかけてある家が見られるようになり、高速道路も、ところどころ凹凸があり、運転により注意が必要になります。
仙台南ジャンクションで、仙台南部道路に入り、仙台東部道路を北上して石巻に向かいます。 

石巻市に行くまでには、仙台市若林区を通ります。
広大な仙台平野に満ちているがれきと泥の堆積を脇に見ていると、 ここに再び稲穂が揺れる日々を描くことは、大きな希望だろうなと思いました。
その日を描くことが希望になるほど、仙台平野は絶望的な状況に見えました。 たとえ塩分が除去できたとしても、田んぼに大きな廃材などがあると、ロータリーが故障したりするし、想像するだに困難な作業を強いられることでしょう。

お昼時になったので、途中松島に立ち寄ることにしました。
4月頭から再開したお店でお昼をいただきました。
松島は被害は少なかったから、とおっしゃっていましたが、 「ここまで津波が来ました」とテープで貼ってあるそのラインは、 軽く1メートルを超えていました。
被害は少ないと言っても、桟橋が壊れたり、堤防が壊れたりしています。
ゴールデンウィーク中は、観光客よりボランティア活動で訪れる方が多かったということでした。

震災後2ヶ月たった石巻市は、主要道路は確かに通れるようになっていましたが、 道路の脇の建物は、ほとんど手がつけられていない状態に見えました。
通常の復興作業においては、がれきを撤去したうえで建物を解体して更地にし、そのあと建物を建設していくのでしょうが、この広範囲にわたった被害状況を回復させるのにとんでもない時間がかかるだろうことが想像されます。

ちょうどこの日は5月11日で、震災後2カ月目でした。 運転手の交代のためにちょうど車を止めた時が2時46分で、石巻市の防災無線が黙祷を呼び掛けていました。

岩田さんのつてでお訪ねしたボランティアの作業場では、青空カフェを作る準備をすすめていました。ラジカセから音楽がなっていましたが、これは2カ月目でようやく流し始めたようです。
大宮神社という名で呼ばれる神社では、震災当日270名の方が避難しており、その地域でも何人も 亡くなったそうです。

海岸から数百メートル離れており、平地から約2メートルほど高いだけだったのですが、建物がゆがむだけで何とか建っていました。その神社の周りは、ほとんどの家が流されたり、壊れたり、立っていても中にはがれきが流れ込んでいたり、と惨たんたる状況でした。

石巻市は被害が大きいところとは聞いていましたが、青森から福島まで、津波の被害にあった地域のことをイメージすると、果てしない規模を想像してしまい、絶望的な感覚に陥ってしまいました。
「ボランティアが足りない」という言葉は誇張でも何でもなく、人手不足は見るからに明らかでした。
しかし、倒壊家屋への立ち入りはプロでも困難な中、ボランティアのできる作業はどうしても限られそうです。

石巻市は、民間3団体で立ち上げた災害ボランティアセンターがうまく機能しているようです。
毎日夜7時の会議で、翌朝の作業をがれき班、心のケア班、炊き出し班、などの部門別会議を行い、 翌日の作業内容を決めているようです。
もし、支援村でボランティアツアーを企画する場合は、このような、すでに活動しているボランティアグループと連動することによってスムースな企画を作れそうです。

夜は、こちらも岩田さんの御友人の紹介で追分温泉という施設に宿泊しました。
震災以来、営業はせず、一時避難、二次避難先として提供されており、 私たちはあいている2室を使わせていただきました。
夜には、岩田さんの御友人の熊谷さんがお越しになって、震災復興に向けての動き、 今の取り組みなどを熱く語ってくださいました。

翌日は、熊谷産業の仮設事務所にお邪魔しました。
仮設と書いたのは、元の会社はすべて流されてしまったからです。 熱い思いをしっかり受け止め、私たちのできることは何かと自問しながら車中の人になりました。

相馬市まで向かう道中では、仙台空港や亘理町をとおります。 亘理町では、自衛隊が田んぼのがれきを撤去している姿が見えました。
時間より少し遅れて着くと、Oさんがお店で待ってくれていました。

地域おこし活動を10年近くやってきて、飯舘村に深くかかわっていたとのことでした。
話を聞くと、福島県の3重被害、地震、津波、原発の被害がいかにすごいかと痛感しました。
マスクをしている人はだれもおらず、ほぼ平常通りの生活が行われていました。
原発から近いこともあり、まだまだがれき撤去もできず、宮城や岩手とはまた質の違う被害を受けています。
Oさん自身も、地域のしがらみがある中、原発の危険を訴える活動をするのは本当につらそうでしたが、 自分がやるしかない、と決意しているようでした。
Oさんとともに、相馬市で5月24日~25日に出張カフェを行うことになりました。

次に、相馬市から須賀川市に向かいました。
須賀川市の自然食品店を営むAさんは、人当たりの良い方でした。 柔和な顔立ちの中に、芯の強さがうかがえました。
Aさんはずっと原発反対の運動をしてきて、震災後一次避難もされました。やはり、「偽善者!」という非難も受けたようです。
実は須賀川市でも、安全な放射線量とは言い難いのですが、 国が安全だと言っている以上、危険だというお前は神経質で変人だ、という扱いを受けているようです。

近隣市である、福島市、郡山市でも積極的な活動が続けられているようです。以下のサイトに連絡してください、と言われました。

◎子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク http://kofdomofukushima.at.webry.info/
◎福島老朽原発を考える会(フクロウの会)http://fukurou.txt-nifty.com/fukurou/
◎皆でつなごう 疎開・移住&汚染食材情報*ここの疎開先に、支援村を登録してください。とAさん談。http://d.hatena.ne.jp/tea_67/

須賀川を出てからは、途中渋滞に巻き込まれながらも、 安全運転で帰ってくることができました。
支援村の今後の活動をどうしていくのかを考える上で大きなきっかけとなる1泊2日でした。
津波と地震の被害のすさまじさ、原発被災の先の見えなさに 暗澹もなりかけましたが、私たちは私たちのできることしかできないと思い直しているところです。
みなさま、送り出してくださりありがとうございました。

以上が首藤による報告です。
前回の被災地訪問(4月3日〜5日)のレポートはこちら ↓ 

気仙沼からの報告 by 林良樹
栃木県鹿沼市からの報告 by 林良樹