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被災地の現状報告と支援村のこれから

4月7日、木曜日。

朝の事務局ミーティングでは、被災地、気仙沼・飯館村と、多くの方が避難している(南相馬市、大熊町、飯館村などから)栃木県鹿沼市を訪れていた林良樹と阿部文子からの報告がありました。

 

 

 

 

 

 

 
・4月3日朝10時 鴨川を出発、夜7時に山形新庄に到着。新庄の有機農ネットワークの方と合流する。

・4月4日朝5時 山形新庄を出発。トラック1台とマイクロバス1台、自分たちも含め計18人で気仙沼の紫会館に向かった。
紫会館では、130人分のお昼ご飯の炊き出しをした。会館自体はこじんまりしていて、50人程度が生活をしていた。他に、周辺地域に散らばっている被災者の方々が、鍋等を持って、集まって来ていた。とにかく寒くて、雪がちらちら降っている。
大部屋でぎゅう詰めになって暮らしているから避難生活はきつい。
行く先々でお話しをすると皆泣き出してしまうような状態。
ある人の話では津波から避難するために高台に上がる途中で、あちらこちらから「助けてー!」という声を聞いた。
また、おばあさんが3歳の孫を抱いて逃げている途中、家の屋根が落ちてきて、ふと気付いたら孫は既にいなくなっていたという。
気仙沼で、打撃を受けたのは、市全体の2割程度。他、8割の高台地域は、機能しているので、被災者もできるだけ近所に避難しながら、町の復興を待っていたいようだった。

・4月4日夜 飯館村に向かい、村長と面談。一時期は村の半数が避難したが、3月25日に長崎大学院教授の講演があり、いくつかの注意事項を守れば、生活には支障ないという内容だったため、村人がまた一斉に戻って来ている。
ただ、農家へは、田畑をいじらないように、というお願いが出されていた。

・4月5日飯館村から栃木県鹿沼市の避難所に移動。
広い体育館の中に、200名ほどが、各集落に分かれて生活していた。(ピーク時は400名いたそうだ)
3食のお弁当、バスの送迎でお風呂へ、カット、マッサージなどの地域ボランティアサービスがある。
鹿沼市の職員に調整していただき、大山支援村の説明会を翌日行なうこととなる。

・4月6日午後3時 支援村の説明会。15〜20名が参加。集まった方達は、南相馬市、大熊町からの避難者で自衛隊が封鎖していて、家へは戻れないケースが多かった。次はゼロからスタートなので、鴨川に限らず、日本中が移住の候補地に
なっている。具体的な質問が多かった。(地形についてや、土地や家は幾らぐらいするのか?仕事はあるか?など)

以上の報告を受け、支援村事務局では以下のように今後について協議しました。

・ 地震、津波の被害を受けた被災地では復興モード強いが、原発の被災者は他の土地への移住を余儀なくされている。
支援村は今後、避難生活から社会復帰のみならず、定住支援を視野に入れて活動していく必要があるのでは?
・避難所に期限がある場合が多い。そのため、二次、三次避難を考えなくてはいけない人が増えつつある。支援村としては各地の避難所に連絡を取り、支援村の存在をアピールしていく必要がある。

林良樹&  阿倍文子

 

気仙沼からの報告 by 家利

気仙沼で瓦礫の撤去作業のボランティアをしている家利くんからの報告をお伝えします。

4月6日、午後6:38に届いたメール:

定時報告致します

今日は道に広がった瓦礫の撤去作業をしました

写真はコンビニです

津波で壊滅しています

 

4月7日、午後5:17に届いたメール:

定時報告致します

地元の方に聞いていきましたが
皆さんは

「このまちが好きだから他には行きたくないし、もう一度頑張りたい。」

といっていました

今日は瓦礫が広がった、道路の瓦礫撤去をしていました

地元の方に喜んで頂きとても嬉しかったです

 

栃木県鹿沼市からの報告 by 林良樹

4月5日 朝、被災地を訪れている林良樹から連絡がありました。

福島県飯館村の村長と昨晩、お話しをしたところ、
「基本的に申し出はありがたいですが、避難した村民は
今どんどん戻って来ているので状況を見てみます。」
とのことです。

その後、事務局宛に来た報告メールを転載します。

4月5日 午後9:02に届いたメール:

支援村のみなさま

今日は、栃木県鹿沼市にて宿泊しています。

飯館村の方が、80人ほど避難しているとの情報を得たので
鴨川に向かう途中、栃木県に寄りました。

総合体育館には、約200名の避難民がいました。

飯館村の他に、大熊町や南相馬市の方々がいました。

彼らの中には、地震、津波、原発の三重苦の被災者がおり、
もう帰るところがない人たちがいました。

最初、3つの地域のリーダーに支援村の話しをしたら、
この話しは、他の地域の興味のある人に直接聞いてもらった
ほうが良いということになり、
急遽、鹿沼市の自治体と話しあいをし、
明日の午後3時から支援村の
説明会を開いていただくことになりました。

福島原発の近くの住民とお話ししましたが、もう一生ふるさとには
帰れなくなりましたと、目に涙をためておっしゃっていました。

本当に、すべてを失った人たちがここには、いました。

もう、必然的に新しい土地に行き、いちから始めるしかありませんと
無念そうに語っていました。

地震や津波ならまだしも、原発だけはどうにもならないと、
肩を落としため息をついていました。

もう、本当に原発だけは嫌です!と、
若いお母さんは、下を向いて悔しそうに言っていました。

明日、話して反応があるか分かりませんが、
支援村と鴨川について説明して来ます。

夜遅くなると思いますが、明日には鴨川へ戻れると思います。

良樹

気仙沼からの報告 by 林良樹

4月3日に被災地に向かった(詳細はこちら。)林良樹から事務局宛に報告メールが来ました。以下に転載します。

4月5日 午前4:45に届いたメール:

支援村のみなさま

昨日、気仙沼の炊き出しを終え、飯館村に到着しました。
気仙沼は、もう言葉がありません。
自然界の力を思い知らせれました。
あっという間に、圧倒的な破壊力で海辺の街、集落が消えてしまいました。

人も、生活も、家族も、家も、車も、
お店も、船も、旅館も、電柱も、
お気に入りの宝物も、パソコンも、スマートフォンも、
犬も、猫も、歴史も、何もかもが
粉々に砕かれていました…。

人口7万人の内、死者行方不明者2000人、避難民12000人で、
多くの人は、高台の体育館や公民館にぎゅうぎゅうに暮らしていました。

着の身着のままで、命がらがらで逃げて来た人々が、
肩を寄せ合って助け合いながら、なんとか日々を過ごしているといった感じです。

僕が行った公民館にいる20〜30の方々に鴨川の説明をしました。
また、その避難所のリーダーや、世話役の青年Sさん、また市役所にも、
支援村の説明をし、資料を渡しました。

避難民の方に鴨川の話しをすると
みなさん、それはいいですね、
考えさせてくださいといっていましたが、
まだ先のことが考えられないといった状態でした。
家族と相談してみますと。

ただ、気仙沼の全体の2割位の海辺の低い土地に住んでいた方だけが
被害にあい、他の8割の住民は、健在なのです。
だから、気仙沼全体のコミュニティーは破壊されていないので、
他地域から来たボランティアだけでなく、
地元の支援も多くありました。

また、一時避難で他の場所に移っている人は、
土地感のある近隣の市町村に避難している人が多いようです。

しかし、市も、県も、国も、対応が間に合わず、補助金が一人10万から
50万円位しか出ないかもしれません?と聞きました。

やっと、仮設住宅の建設が始まったようですが、
百世帯くらいしかなく、まだまだ厳しい状況が続く様子です。

これからどうすっぺかね…といった先が見えないという感じでした。

そんな中で、とりあえず心身を休めるために、
休養のつもりで短期間でもいらしてくださいとお伝えして来ました。

良樹

子供たちもボランティア@支援村

4月5日、火曜日。

支援村事務局がオープンしてから数日たったある日、「何か手伝うことありませんかぁ?」とやって来た12歳の少女、愛依(あい)ちゃん(奈良林在住)。当日、事務局スタッフをしていた岩田さんが「どんなお手伝いができるかな?」と尋ねると、「被災した子供たちと遊んであげたい。」と返してきたそうだ。

それからというもの、ほぼ毎日やって来る愛依ちゃん。事務局スタッフのお母さんについて来る萌音(もね)ちゃんと遊んだり、ボランティアにやって来る大人たちとまざって物資の整理や掃除をしてくれる。廃校となってからの2年間、静かだった旧大山小学校(大山支援村)に子供たちの笑顔が戻って来ました。

萌音ちゃん(左)と愛依ちゃん(右)

 

 

 

 

 

 

 

 

← 寝室のプライバシーを守るためののれんを取り付けてくれている様子

支援村スタッフの家利くん、気仙沼へ

4月4日、月曜日。

弱冠17歳にして、奈良県から支援村の活動を手伝いに来てくれているた家利(いえとし)くん。FIWC関西委員会(ボランティア団体)のメンバーである彼は先月24日に鴨川に到着し、28日からは支援村で宿直をしてくれていました。元荷揚げ屋の経験を活かして畳、布団、冷蔵庫、洗濯機など、重たい物資を運ぶ作業では大活躍。支援村にボランティアをしに来てくれる地域の子供たちの「お兄さん」的存在でもあります。

その家利くんが今朝鴨川を出発し気仙沼唐桑町に向かっています。予定では13日まで現地に滞在し、がれきの撤去作業をすることになります。

先日初めて自分で焼きそばを作った家利くん。被災地でのボランティアを通して、さらにたくましくなって戻って来ることでしょう。がんばろう、家利くん!!

支援村スタッフが気仙沼、飯舘村へ

4月3日、日曜日。

支援村の受け入れ準備も大方整い、今日からはいよいよスタッフが被災地へと向かいます。

事務局長の林良樹さんと経理の阿部文子さんは今朝鴨川を出発し、まずは阿倍さんが事務局を務める新庄水田トラストのメンバーと合流。宮城県気仙沼で被災している130名の炊き出しに参加します。翌日、放射能汚染が懸念される福島県飯舘村(いいたてむら)にも行き、現地の様子を見てきます。

予定では現地で2泊し、5日に鴨川に戻って来ます。
良樹さん、阿部さん、気をつけて行ってきてください!

 

壁新聞 第2号!

4月2日、土曜日。

昨日物資班から連絡がありました通り、募集開始後瞬く間に物資が集まり、早くもすべての物資が目標数に達しました。
地域の皆さま、そして遠くからお越しいただいた皆さま、ご協力大変ありがとうございました!

受付終了の旨と感謝のメッセージ、支援村の受け入れ状況をしたため、壁新聞 第2号を地域の方々の目にとまる場所に貼りました。

PDF版もありますので、必要な方はダウンロードも可能です ↓
壁新聞第2号(PDF)

支援村事務局、そして物資班一同、改めて皆さまのご協力に感謝いたします!

物資班
(写真上)寝具、日用品担当: 林 菜穂子(釜沼在住)、米山 美穂(鋸南町在住)
(写真下)台所用品、食品担当:下郷さとみ(金束在住)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネット開通@支援村

4月1日、金曜日。

支援村事務局のネットがいよいよ開通しました。
これで事務局内での作業もさらにはかどります。

4月2日、土曜日。

被災者の皆様がいらした際、使っていただくパソコンルーム兼図書室。
こちらではネットを自由に使っていただく予定です。

 

ネット接続を担当したのは通信班のクリス  ↓

 

 

 

今日の支援村

4月1日、金曜日。

4月に入り、だいぶ春らしくなってきました。

支援村では毎朝の事務局ミーティングに始まり、今日もたくさんのボランティアの方々の協力の元、
花壇の手入れ、台所用品の片付け、マットレスの搬入、布団干し入れなどの作業が行われました。
午後には鴨川自然王国の加藤登紀子さんも訪れたり、取材も一件ありました。

一日を写真で綴ります ↓